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雪の白を反射した光が室内を淡く照らす。

時折暖炉の薪がはぜるのが聞こえる以外に音はない。

降り積もる雪が音も覆い隠してしまうのか、それとも音などはじめから無かったのか。

そう思いかけた頃、画板をこする木炭の音で我に返る。


私は音を思い出す。



「…………」


数歩の距離の向こう側から、画板越しに黒い瞳がじっと私を見つめている。

長い間身動きもせず私を見つめ、ようやく木炭を持った手を動かす。

けれどそれも2、3本の線を引いたかと思えばまた、じっと私を見つめる。

かと思えば、それまでの時間が嘘のように急に画板にかじりつき、顔も上げず一心不乱に手を動かし続ける、といった具合だ。


この不思議な絵師のモデルを務めるのもこれで何回目か。

肖像画のための素描は今回が最後で、彩色にモデルは必要ない。



彼は肖像画のために、わざわざ遠方の修道院からこの城まで呼びつけられた絵師だ。

それというのも、私の婚約者が「彼の肖像画」を婚姻の条件にしたからだ。


「生きた人間を閉じ込めたような絵を描く絵師がいる」


それが彼だ。

彼の絵が描かれた修道院の壁は、まるで天の門のようだと言う。

諸聖人たちの目は智慧に富み、聖母の肌は柔く、神の子の血は熱い。


切れば血が噴き出るんじゃないか。

修道院へと彼を迎えに行った騎士は、絵を前にして思わず呟いたらしい。


そんな絵を描く絵師とは一体どんな人物なのだろうと思っていた。

けれど待っていたのは、黒い髪に黒い瞳の痩せた青年だった。


修道院の絵師と聞いていたから、私はてっきり修道士だとばかり思っていたが、どうやら違うらしい。

剃髪されていない髪は肩のあたりまで垂れ、長い前髪が表情を隠していた。

歳だって私より少し上、というくらいで細い体つきがよけい彼を幼く見せる。


一見しただけでは、とても彼が「神のごとき」絵を描く絵師には見えなかった。


けれど、彼は他の絵師たちとはまったく違う。

美辞麗句を並び立てることもなければ、やれもっと笑え、やれ横を向けなど注文らしい注文もない。

素っ気ない一礼をし、用意された椅子に座ると、あとはただ絵を描くだけ。



彼と話したことはない。

最初の挨拶の時だって、彼は小さくうなずいただけだった。


私たちはただ黙って向かい合うだけ。


正直なところ、私は彼のモデルになるのが嫌だった。

いや…、「嫌」ではなく「怖い」と言ったほうが正しいのかもしれない。


彼の目が怖かった。

じっと見つめられると、心の奥底まで見透かされてしまうような気がして落ち着かない。


着飾った衣装などまるで無意味。

彼が見ているのは「私」だ。


けれど、彼の描く「私」を見てみたいと思う自分にも、薄々気がついていた。



怖い、けれど…。



「描かれるのは嫌いですか?」

「え…?」


低い声にはっとする。

私に向けられた声なのだと、ようやく理解した。


黒い瞳が私を見ていた。


「…そんな顔をなさっていたので」


小さな声で彼は呟いた。

じっと目をみて話すのは、どうやら彼の癖らしい。


「そんな風に見えましたか?」

「はい」


簡潔に彼は答えた。

身分を考えれば、彼の口調ははあまりにも不躾だ。

けれど、不思議と嫌な気分にはならなかった。


むしろ無駄な言葉を費やそうとしない様子に好感を持った。

もっと彼と話したい。

そう思った。


「嫌い…ではありません。けれど、慣れてもいません」

「そうですか、すみません」

「なぜあなたが謝るの?」

「私の描き方は変わっているので。
 修道院でもよく気味悪がられます」

「まぁ、あなたは素晴らしい絵を描かれると聞きました。
 それなのにそんな言い方、あんまりだわ」


返事の代わりに、彼は微かに笑った。


「素描も今日で終わりです。後は私ひとりで描けますから」

「あなたおひとりで?お弟子さんはいらっしゃらないのですか?」

「工房には属していないので。
 それに、私の絵は私が描きます」


控え目ながら、彼ははっきりと言った。

真剣な眼差しだった。


「私は、私が見たものしか描けません。
 誰かの筆が入れば、それは、私の見たものじゃない」


どきりとした。

彼の目を通した、私。


「素描を…見せていただいてもよろしいですか?」

「…はい」


画板の前に進む足が震えた。

ゆっくりと、画板を覗き込む。



「―――あ…」



それ以上、私は言葉を紡ぐことができなかった。


小さな画板の中、そこに「私」がいた。



「これが…「私」?」

「――はい」



細い線が幾重にも絡まり、柔らかな輪郭を形作る。

体温を宿しているとも思えるその絵は、私が想像していた以上に素晴らしいものだった。

けれど私を捉えたのは「神のごとき」彼の技術ではなく、この絵の与える印象だった。


画板の中の「私」は静かな微笑みを浮かべ、私を見返していた。



静かな絵だった。

微笑む口許は穏やかで優しく、ただ、前を見据えた目だけが、かすかに淋しさを湛えている。



「――違うわ」



虚飾と矜持。

それだけが私の持ち物だ。


王家の娘、大国に嫁ぐ姫。

なんと呼ばれかしずかれようと、本当の私はちっぽけな小娘でしかない。


なんの力も持たない小娘が、こんな静かに笑うことなど出来るはずがない。



「私は…こんな風には笑えない」


「いいえ、これはあなたです」



迷いのない声が降り注ぐ。

黒い瞳が静かに私を見据えていた。



「この絵は、間違いなくあなたです。
 あなたは自らを差し出せる方です。
 それを受け止めて、微笑むことのできる強さを持った方です。
 私の前に座ったあなたは、静かに微笑んでらっしゃいました」

「………」


「…ただ」

「え…?」


「あなたの悲しみを知る者はいるのでしょうか?」


「――…!」


「…あなたは強い方です。
 けれど悲しみを感じないということではないはずです。
 その強さが逆にあなたを苦しめやしないか、ただそれだけが…心配なのです」



彼の目が、声が私を貫いた。

心臓がひとつ、大きく跳ねた。



――…彼は、「私」を見ている



初めて、彼の瞳をまっすぐに見た。

怖いと思っていたはずの黒い目は優しく私を見つめていた。



「――…ありがとう」


「…勿体ないお言葉です」



彼は低く囁き、目を伏せた。


その声が夕刻の鐘の音にかき消される。

彼は顔を上げ、雪が降り続ける外を見やった。


「…そろそろ時間ですね。
 何度も足を運んでいただき、ありがとうございました」

「こちらこそ。
 完成を楽しみにしています」

「はい」


そう言うと、彼は背を向け、木炭を片付け始めた。

私はそれをぼんやりと眺めていた。



素描は今日で終わり。


何故か、遠く鳴り響く鐘の音を憎らしかった。



「――ッ」



ふと、彼が片付けの手を止めた。

肩越しに左手の指を抑えているのが見えた。


「どうしたのですか?」

「…いえ、なんでもありません。
 ナイフで少し切ってしまっただけです」

「――待って」

「あ…」



彼の髪が頬をくすぐった。

口の中にじわりと血の味が滲む。



「――姫様…!?」



彼が手を引こうとする。

腕を抑えた指に力を込めると、観念したらしく、彼はおとなしくされるがままになった。

血が止まるのを待って、ゆっくりと唇を離す。


「私の絵を描いてくださる大切な指よ。
 大事にしてくださらなければいけないわ」

「…はい」


見上げた彼は戸惑いの表情を浮かべていた。

初めて見る年相応の顔に、なぜか私は嬉しくなった。


そしてふと、侍女の言葉を思い出した。



「ねぇ、あなたは聖ウァレンティアヌスをご存じ?」

「…ローマの司祭だったという聖人ですか?」

「そう、恋人たちの守護聖人。
 今日は彼の祝日なのですって。
 大切な人に贈り物をするならわしがあるそうよ」


彼の手を取り、身に着けていたハンカチを傷跡に巻いた。

柔らかい布地越しに彼の体温が指に伝わる。



「姫様、いけません…!」

「いいのよ」

「ですが…!」

「あなたに貰っていただきたいの」



視線が交わる。

その時、彼に感じていた怖さの正体を知った。



――私は、彼に惹かれていたのだ。



「…私も、こうやって贈り物をしたかったのです。
 我儘を許してくださる?」



――いとしい人の許へ走ってゆける彼女たちが羨ましかった。



「あなたは、私の悲しみを知る方です」

「私は…」



音が消える。

私を見つめてくれる黒い瞳がいとおしかった。



このまま時が止まってしまえばいい、そう思った。

けれど、それは叶わない願いだということも、私は知っている。


ならばせめてその目と微かな体温だけでも、覚えておきたかった。



「――姫様、お迎えに上がりました」


扉越しに侍女の声が聞こえる。

…行かなくては。


「…ありがとう、すぐ行くわ」

「――姫様…!」



重ねた手を放し、背を向けようとしたその一瞬、彼が強く私の手を引いた。

黒い瞳が、声にならない声で私の名を呼んだ。

視線が絡まる。





「…絵を、楽しみにしています」



侍女が待つ扉を抜け、冷たい廊下へ足を踏み出す。

後ろで扉が閉まる音が聞こえた。



熱の残る指先には彼の血がついていた。


その血は甘く、苦い味がした。

 

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