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聖ウァレンティアヌスの日








「あんたあの人にもう渡したの?」

「まだよ、忙しくって会いに行けやしない。
 かわいそうだと思うなら、あんた、代わってくれたらどう?」

「嫌よ、私だってまだ渡せてないんだから。
 午後の鐘が鳴ったら会いに来てくれることになってるのよ」

「いいわねぇ」

「ふふ、やっと昨日縫い終わったのよ」

「後で見せてよ」

「いいわよ」



石壁の向こうから、下女たちのお喋りが聞える。

忙しい合間を縫って、彼女らはよく立ち話をする。

年頃の娘らしい甲高い声が冷たい城の廊下に響いている。

その声はいつもより楽しげで、ひどく浮かれているようだった。



ふたりのお喋りに耳を傾けながら、私はぼんやりと雪の降る裏庭を眺めていた。

時折、暖炉にくべた薪がはぜる音が部屋に響く。

「こら!
 お前たち、姫様の部屋の前でうるさいわよ」

「あっ…」

「浮かれる気持ちも分かるけど、少しは声を落としなさいな。
 向こうの角まで響いてたわよ」

「申し訳ございません…」



今度は耳慣れた声が下女たちをたしなめるのが聞こえた。

私の侍女だ。

かしましいお喋りがぴたりと止まる。


下女たちが慌てて声を落とすのがおかしかくて、思わず笑ってしまう。

彼女にお小言を言われたときの私と同じだ。



「そのリネン、洗濯女が待ちくたびれてたわよ。早く済ませてしまいなさい。

 それが終われば、後は晩餐の支度までに戻ればいいから」

「え?」

「約束してるんでしょう?」

「あっ…」

「料理番にはうまく言っといてあげる」

「ありがとうございます…!」



下女たちは嬉しそうに返事をすると、ぱたぱたと足音を立て仕事に戻っていった。

よっぽど楽しみな約束があるらしい。

その足取りすら華やいだ様子で、冷たい廊下には不釣り合いだった。


彼女らの足音が聞こえなくなったころ、控えめなノックが扉を叩いた。


「どうぞ」

「失礼します」


雪景色の窓辺から顔を上げ、扉を振り返ると、先ほどの侍女が入り口近くに立っていた。

私が声をかけるのを待って、お辞儀をした頭を上げる。


「そろそろお時間です、お支度に参りました」

「あら、もうそんな時間なの」

「はい」

「雪の日は太陽が見えないから駄目ね、時間の感覚が狂ってしまうわ。
 ありがとう、着替えるのだったわね」

「隣の間にご用意しております」

「わかったわ」


本当はまだ雪景色に未練があるけれど、ここは素直に彼女に従っておく。

彼女は幼いころから私に仕えてくれている侍女で、私にとっては姉のような存在だ。

忠誠心に篤く、信頼している。

けれど、だからこそ身に染みて分かっている。

彼女は決して甘くない。



彼女に導かれるまま、大人しく用意された椅子に腰かける。

編み込まれた髪が手際よくほどかれ、丁寧に梳かれていく。


「毎回着飾らなきゃいけないんだもの、絵に描かれるというのは大層なことね」

「王家の肖像画ですから仕方ありません」

「着飾るのはあまり好きじゃないの」

「質素を好まれる姫様の質は存じておりますが、これからはそうも言ってられません。
 絵が出来上がれば嫁がれ一国の王妃となられるのですから。
 これもいい機会です、慣れていただかなければ」

「…そうね」


お小言が始まる前に口を噤む。

たしなめられたくないという思い以上に、彼女が言いたいこともよくわかるから。


出来上がった絵と共に、私は嫁ぐ。


古い血筋しか持たない小さく弱いこの国から、新しい血潮の流れる力ある国へ。

私はその国の王妃として、宮廷に立たねばならない。


肖像画は嫁入り道具のひとつだ。


王家の姫として生まれた以上、国のために嫁ぐのは当たり前のこと。

それに不満を持ったことはないし、自分の役目だと心得てもいる。

力ないこの国が大国の狭間で生き残るには、政情を見極め、うまく同盟を結んでいくしかない。

同盟とはつまり、婚姻だ。

私の身一つでこの国の安定が買えるのならば、安い買い物だ。

けれど、見知らぬ宮廷に嫁ぐことに不安がないわけじゃない。


先ほどの下女たちの軽やかな囁きが、耳の奥で響いた。



「…ねぇ」

「はい」

「今日は下女たちがいつもよりそわそわしてるようね」

「申し訳ございません、聞こえておりましたか」

「いいのよ、私、彼女たちの声を聞くのは好きだから。

 それより彼女たちは何の話をしていたの?」

「殿方に渡す贈り物の話ですよ」

「贈り物?」

「はい、今日は聖ウァレンティアヌスの日ですから」


聖ウァレンティアヌス?


聞き覚えのない名前に思わず振り向きそうになった。

髪を結っている最中に動いたらまた叱られる。

前を向いたまま彼女に問う。


「なぁに、それ。
 そんな聖人の祝日、あったかしら?」

「近頃になってよく言われるようになった祝日です。
 ローマの頃に殉教した司祭で、なんでも恋人たちの守護聖人だとか。
 好いた相手に身に着ける物を贈るのが町で流行っているそうです」

「へぇ、なるほどね」


彼女たちが好きそうなお話だわ。


そわそわした様子の彼女たちがとても可愛らしく思えた。

今頃、好いた人の許へ雪の中を走っているのだろうか?



「いいわね、楽しそう」

「少々浮かれすぎているようで困ります」

「あまり叱らないであげてね」

「程度によります」

「ふふ、そう言うあなたはどうなの?」

「なにがです?」

「いつもあなたに挨拶していく騎士がいるでしょう?
 あの方に贈り物はしなくてよいの?」

「あれはただの幼馴染みです」

「まぁ、そうなの?
 私はてっきり、あの方はあなたを好いてるのだとばかり思ってたわ」

「…姫様」


わざとらしく驚く私を、彼女は低い声でたしなめた。

彼女がこの手の話が苦手な事など当然知っている。

こんな冗談が言えるのは、この城で彼女しかいない。

私はくすくすと笑った。


「姫様、お慎みくださいませ」

「ご免なさい」


言われた通り、おとなしくまた前を向く。

ちらりと盗み見した彼女の顔は、気のせいか少し赤くなっているように見えた。

何事にも動じないいつもの様子とは大違い。



お堅いこの侍女にこんな顔をさせてしまうのだから、恋とは全くなんて大したものだろう。


私もいつか、恋をするのだろうか。

下女たちのように愛しい人との逢瀬を待ちかね、彼女のように頬を赤く染める恋を。


恋を知らないまま、私は嫁ぐ。

できるのならば、知らないまま嫁いでいきたいと思う。



許されないのならば、知らないほうがいい。



「姫様、御髪が終わりました。
 お着替えを、こちらに」

「…わかったわ」



彼女たちは愛しい人に出会えただろうか?


その想いが伝わりますように、そう祈らずにはいられなかった。








 

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